不幸な理由

豊かなのに不幸なのは何故なのか、昔から不思議に思っています。でも今に始まったことではなく、昔から金持ち貴族なのに退廃的な暮らしをしてるってのは、あるあるなわけで。


足りないけれど、頑張れば手が届く、そんなものがないと心がすさむのでしょうか。


どこかで、スイッチを切り替えて、「十分あるんだ」というマインドにならないと不幸になるのでしょう。でも、その切り替えは意外と難しい。


足りないもの探しをして、努力して手に入れる、という流れは明快で快感なんでしょうね。そこからなかなか抜けられない。


足りないものを無理やり探すなら、豊かな者同士の細かーい比較論に突入してしまう。昔ならそんな比較簡単にはできなかったけれど、それがSNSでできる気がしてしまう。実際はネットに書かれるものは事実かもしれないしフェイクかもしれない。それに事実だけを書いているからと言って真実にはならないわけで。


(例えばいいことしか言わない企業説明会は嘘は言ってないけど真実も言ってないですから…)


そんな本物っぽい「嘘」を真に受けると更に辛かろう、と思います。若者はそれに本当に気付いているのだろうか?大人になる前からネットにどっぷりだと、ネットの世界がまるで現実と横並びのように感じていても不思議ではない…


そして、それで自分の恵まれなさや報われなさを心に募らせているなら、とても不毛だ。その不幸感こそがフェイクだ。


今日も晴れてる、歩ける、眠れる場所がある、仕事がある、それを感謝できたらそれだけで大半の人は超絶幸せなんだけど…


言うは易し行うは難し、ですかね…